東京そぞろ歩き(2)日比谷公園

東京そぞろ歩き(2)

日比谷公園

                                坂本 弘道

霞が関のオアシス

 日比谷公園は、霞が関の官庁街と、帝国ホテルのある日比谷通りに挟まれた長方形の公園だ。私は、旧厚生省に務めていた頃、日比谷公園を横切って、銀座、有楽町の方に昼飯を食べに行った。また、園内の通路で、同僚とキャッチボールをしたこともあった。

霞が関界隈では、皆が利用できる緑のオアシスだ。

 

創設時の姿が今日も

 公園の設計は、東京帝国大学林学科の教授だった本多静六による。ドイツに留学した本多教授は、西洋の公園様式に日本庭園の伝統を組み合わせ、和洋折衷の公園とした。明治36年(1903)の開園だ。今も創設時の姿をほぼ残している。

 日本式庭園の心字池、鶴の噴水のある雲形池と2つの池がある。心字池は、堀だった一部を利用して心の字の形に作られている。当時の石垣の一部が今も残っている。

雲形池の鶴の噴水は、創設時からのもので、真冬には時折凍り付いている様子がニュースになる。

 西洋庭園は、第一花壇と第二花壇からできている。第一花壇は長方形で、周辺は数々のバラ、真ん中の芝生には数本の棕櫚が植えてある。周りには、アメリカから来た大きなヤシの木がそびえ、その側には沖縄の花デイゴが、大きな豆のような赤い花をつけている。

長方形の小さな池があり、向かい合わせのペリカンの口から水が湧き出ている。このペリカンは、公園創設当初からのものだ。

 

ペリカンの口ほとばしる清水かな   弘道

 

第二花壇は、大噴水と隣り合わせだ。ここのバラも良く咲いている。真ん中の芝生は、隣の楡の木広場とともに、時折イベントに使われる。

屋台が並び、家族連れが生ビールや焼き鳥を手にして休日を楽しんでいる。地方の名産を販売することもある。戦争中には芋畑になったという。

 

園内には多くのモニュメントが

公園の中に小高い丘がある。公園造成中に残土を積み上げて出来上がった。三段重ねのような形をしているので、三笠山といっている。

丘には、1776年アメリカ独立を記念したフィラデルフィアにある自由の鐘のレプリカがある。

これは、戦後、マッカーサー統治時、日本にも自由をと、アメリカの有志が日本新聞協会に寄贈したものだ。

鐘の音は故障でしばらく途絶えていたが、その後修繕、一正午に公園一帯に鳴り響いている。

 

紅葉の自由の丘に鐘ひびき     弘道

 

第一花壇の北側には、ローマ建国のロムルス、レムス兄弟がオオカミに育てられ、乳を飲んでいるルーパロマーナ、ローマの牝オオカミの銅像がある。ローマの歴史で、教科書で見かける銅像だ。

1933年(昭和13)日伊同盟を記念して、時のイタリア首相ムッソリーニから送られたものだ。標識にはイタリアからの寄贈とは書かれているが、ムッソリーニの名前はない。

南極大陸の石もある。昭和41年、南極観測船「ふじ」から寄贈を行けた南極、東温グル島の慎太郎山で採取された石だ。重さ150kgだ。

創設時に設置されたガス灯、馬も一緒に飲める水飲み場、日本橋にあった石造りの欄干、宮崎県から送られた埴輪、石造りの貨幣等盛りだくさんだ。

北西の角には数匹のカモメを組み合わせた噴水がある。これは比較的新しく1986年(昭和61)東京芸術大学淀井敏夫教授の作品だ。淀井氏は文化勲章を受けている。

 

幾つかの建物が

 公園内には、日比谷公会堂、日比谷図書館 レストランでは松本楼、日比谷パレス、棗亭、日比谷茶廊等がある。

 日比谷公会堂では、1960年(昭和35)、社会党の浅沼稲次郎委員長が、右翼少年山口二矢に青年に刺殺されるという衝撃的な事件があった。

 

松本楼の10円カレー

 松本楼は、公園創設時からあり、明治の人達はここで西洋料理のマナーを身に着けたという。1971年(昭和46)学園紛争時、木造の建物は全焼した。放火だった。側にある「首掛の銀杏」は焦げたが、生き延びている。樹齢400年、日比谷交差点近くにあったものを、道路整備で伐採寸前、首をかけても植え替えると頑張った設計者本多静六の執念の銀杏だ。

火事の時、守衛さんが現場で心臓まひを起こし亡くなった。松本楼は、しばらくして鉄筋コンクリート造りに再建された。関東大震災でも焼失したので、二度立て替えたことになる。松本楼は、再建の契機に毎年秋には、10円でカレーライスをふるまっている。コンソメスープも天下逸品だ。

 

秋晴れや十円カレーふるまわれ   弘道

 

公園でのスケッチ教室

 私はこの数年、月二回日比谷公園でのスケッチを続けてきた。師匠は、東京芸大出身の李玉興さん。その時の作品を基に、上野の東京都立美術館で開催された2015年の亜細亜国際美術展覧会に出品した。その作品を掲載する。公園内に残されている旧公園事務所だ。今は展示室になっている。

 園内のグリーンサロンは、だれでも手軽に入れるたまり場だ。私の参加しているスケッチ教室も、雨の日や、寒い日はここを利用している。喫茶や食堂を兼ねていて、置かれたテーブルとイスは、自由に使うことができる。

 この公園が、都会のオアシスとして、どれだけ憩いを与えてくれるか計り知れない。明治の先覚者達の努力の結晶を我々は今享受している。(俳句誌「波」掲載)

 




 

  

 

日比谷公園 旧管理事務所

H.Sakamoto

 

 

   

      

 

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