東京そぞろ歩き(3)小石川植物園の公孫樹

東京そぞろ歩き(3)

            小石川植物園の公孫樹

                               坂本 弘道

江戸時代からの薬草園

 小石川植物園は、地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅から歩いて15分で到着だ。総面積は4万8千坪余りで、周りはびっしりと住宅やビルが立ち並んでいる。

 日本の植物園では一番古い。約320年前、第5代将軍徳川綱吉が幼少の頃住んでいた白山御殿の跡地に、幕府が設けた小石川薬草園に由来する。

 植物園の所有は、文部省等幾つかの経緯を経て、東京大学が設立された1878年(明治10)に、付属植物園になって現在に至っている。

 関東大震災の時は、ここに数万人が避難し、2年余り住み続けた人もいたという記録が残っている。

 

本館までは上り坂

 正門を入ると、すぐに緩やかな上り坂となる。道の左に大きなソテツが植わっている。このソテツは、世界で初めて精子が発見されたことで有名だ。ここは日本の近代植物学発祥の地である。

薄の親分のようなパンパスグラスが、真っ白な大きな穂を何本も付けている。

 本館の前の酔芙蓉が今盛りだ。朝は白い花を開くが、時間がたつにつれて紅色に染まり、夕方には色濃くなって閉じる。

 

夕暮れの舞妓の紅や酔芙蓉    弘道

 

 シダ園には、様々なシダがある。日本は湿度が高く、630種のシダが分布しているといわれる。ここには、そのうち130種が植わっている。シダは、生命力が強く、いつの間にか庭先に蔓延るものだ。

 

ニュートンのリンゴ

 イギリスの物理学者アイザック・ニュートン(1643から1727)は、リンゴが木から落ちるのを見て、万有引力を発見したといわれている。

そのリンゴの木が、この植物園にある。この植物園のリンゴの木は、昭和39年(1964)に英国物理学研究所長サザーランド博士から日本学士院長柴田雄次博士に送られた木を、接木したものだ。

 丁度青い実を3個付けていた。随分と小さい。日本のリンゴは、品種改良で、大きくておいしいのが出回っている。

 それにしても、リンゴが落ちるのを見て、何かが引っ張ているという事を見つけるのだから、さすがに只者ではない。

 

大風に枝で踏ん張る林檎かな  弘道

 

メンデルのブドウ

 メンデル(1822から1884)は、オーストリア帝国の遺伝学の学者だ。今はチェコになっている。高等学校の生物の時間に、えんどう豆を題材にしたメンデルの法則を習ったことを思いだした。

ここにあるブドウの木は、メンデルが実験に用いたブドウの木の分株で、チェコの修道院にあったものを譲り受けたものだ。

 ぶどう棚に実が成っていた。緑色の小粒だ。沢山はない。最近の大きな立派なブドウを見慣れていると、随分と貧弱だが、何物も原種の頃は小さくて素朴なのだろう。

 

精子発見の公孫樹

 園内に、公孫樹がそびえている。銀杏を枝一杯につけて。樹齢280年だ。明治の初め、切り倒されそうになったが、太くて途中であきらめ、しばらくの間のこぎりの跡が残っていたという、曰く因縁付きの公孫樹だ。

この公孫樹は、1896年(明治29)に、平瀬作五郎という理学部植物学科の助手をしていた学者が、世界で初めて、若い種子から精子を発見した。

 それまで種子植物は、すべて花粉管が伸長して造卵器に達し、受精するものと思われていたので、大きな反響を引き起こした。

 根元に沢山の銀杏が落ち、足の踏み場がない程だ。中には、若い芽が出て育っている。公孫樹は成長が早く、みるみる大木になる。

孫の学校で拾ってきた銀杏が、我が家の植木鉢で大きく育って、どうしたものかと思案している。

 

薬園の保存

 ここは徳川幕府の薬園であったことから、120種の薬用植物が栽培されている。薬園の横にこじんまりした売店がある。

 店主が薬園を案内してくれた。トリカブトの花があった。木の柵の向こうの手の届かないところだ。装束の鳥兜に似た、紫色の花びらを縦に並べて付けている。花を観る限りかれんだ。

しかし根は猛毒だ。トリカブトには様々な種類があり、毒性も異なる。毒の強いものを致死量以上食べると、数十秒で死に到ともいわれている。

 

柵囲み遥か彼方にトリカブト 弘道

 

 花梨、桔梗、サンシュユ等を観ることができる。江戸時代、今日のように薬が多く出回らない時は、草花や木が薬の役割を果たしてきた。

 

旧養生所の井戸

 植物園の真ん中のあたりに、旧養生所の井戸がある。養生所が設けられた頃、飲み水として重宝された井戸だ。関東大震災の時は、避難してきた人たちの飲み水として大いに役立った。今では、井戸の上が幅広い簀の子に覆われて保存されている。

また、関東大震災の避難地として、しばらく利用されたこともあって、その記念の石碑が残されている。多くの人が住み着き、草木も痛むので、止む無く避難所は閉鎖したとのことだ。

 

日本庭園

 うっそうとした森を奥に進むと、突然開けた日本庭園に出る。造園家の名はよくわからないが、遠州派の流れをくむものといわれている。

 薄の間をより分けてなだらかな斜面を下ると、水面が現れる。水の淵には、沢山のメダカがおり、足音に驚いたのか一斉に水の中に隠れた。アシがおおい茂っている。

 東京の街中の、静かな憩いの場だ。

(月刊『コア』掲載文を加筆修正)

 

  

  

 

 

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