東京そぞろ歩き(7)泉岳寺と吉良邸跡

東京そぞろ歩き(7)

泉岳寺と吉良邸跡

坂本弘道

高輪の泉岳寺

 12月といえば、忠臣蔵だ。歌舞伎でよく演じられる題目だが、実際にあった話を基にしている。

 播磨赤穂藩の第3代藩主、浅野長矩(あさのながのり、官位は内匠頭)は、江戸城本丸の松の廊下で、吉良義央(きらよしひさ、官位は上野介)に切りつけ、切腹を命じられた。5代将軍綱吉の時代だ。

 主君の無念に報いるため、元禄15年(1703)12月14日午前4時,大石内臓助指揮のもと、赤穂浪士48名が、両国の吉良邸に討ち入った。

 浪士達は吉良の首をもって、浅野内匠頭の埋葬されている品川の泉岳寺まで、10.5kmの雪道を、3時間余りで歩き、墓に首を供え報告した。

 その後、討ち入った赤穂浪士は、切腹となった。泉岳寺には、赤穂浪士47名が、浅野内匠頭と共に祀られている。

 地下鉄浅草線の、泉岳寺で下車した。地上に出て、3分も歩くと、泉岳寺の山門である。

 泉岳寺は、曹洞宗の寺院で、徳川家康が1612年に外桜田に創建した。1641年寛永の大火で焼失、三代将軍家光の時代に、現在の高輪に再建された。

 本堂は、太平洋戦争で空襲に遭い、焼失し、1953年(昭和28年)に、再建された。中門を入って右側に、大石内臓助の銅像がある。

 境内には、梅の木がある。大石主税が、切腹した松平隠岐守三田屋敷に、植えられていたという主税梅だ。浅野内匠頭が切腹した際に、その血の掛かったという石もある。また、吉良の首を洗って、主君の墓前に供えた時の、首洗い井戸がある。生々しい話だ。

  

梅咲きて浪士弔う泉岳寺   弘道

 

 圧巻は、浅野内匠頭の墓の他、47義士の墓である。長方形の墓地の周辺と、真ん中に大内臓助始め、討ち入りに参加した浪士の墓が、寄り添うように、びっしりと並んでいる。

 大石内臓助の墓は、隅の方だが、内匠頭の墓に一番近い。内臓助の戒名は「忠誠院刃空浄劔居士」である。行年45歳だった。

 浪士達の年齢は、大石内臓助の息子、主税の16歳から、堀部弥平衛の77歳までだ。20代、30代の若者が多い。

 浪士達の戒名の一番上に、刃の文字が付けられている。

 墓の入り口で線香を買って、それぞれの墓の前に、一本ずつ立てて廻った。

 境内にある赤穂義士記念館には、浪士達の彫像が置かれている。

 

両国の吉良邸跡

 両国の吉良の屋敷跡を訪ねた。赤穂浪士の討ち入りの場所である、JRの両国駅東口を降りて、徒歩5分の所だ。

 吉良邸跡は、大通りと小道の一角にあった。白壁に囲まれて、本所松坂町公園と書かれている。この白壁は、高貴な人の住む海鼠(なまこ)壁と言われ、元禄の頃を今に伝えている。旧吉良邸は、東西132m、南北62mで8、400m2(2、540坪)と広大なものであった。その中に、母屋が388坪、長屋が426坪あった。現在の公園は、29.5坪で、当時の86分の1に過ぎない。

 吉良上野介の屋敷は、殺傷事件当時、鍜治橋(現在の八重洲)にあったが、赤穂浪士の討ち入りのうわさ等があり、事件の6か月後、両国の屋敷に移った。

 吉良は、討ち入りで殺されるまでの1年半を、ここで過ごした。皮肉なことに、両国は江戸城から離れていて、かえって討ち入りが、し易くなった。

 討ち入りで没収された吉良の屋敷は、その直後の元禄大地震と6日後の大火に遭い、壊滅焼失した。今はその敷地に、民家が立ち並んでいる。

 この公園は昭和9年、地元の両国3丁目町会有志が発起人となって設けられた。邸内の、吉良公御首級(みしるし)を洗った井戸を中心に、土地を購入、公園を造り、東京都に寄付したものだ。現在は、墨田区が管理している。

 園内には、みしるし洗い井戸の他に、松坂稲荷、吉良上野介追慕碑、吉良家家臣二十士碑、吉良上野介公像等がある。

 公像は、愛知県吉良町にある、吉良の菩提寺華蔵寺の、寄木造の木造とそっくりだ。近年作られた。

 家臣二十士は、浪士討ち入りの際亡くなった清水一学等である。歌舞伎では本名は使えず、清水一角となっている。

 吉良邸は、米沢藩の侍や、浪人が警護に当たっていた。討ち入りは真夜中の出来事で、守護の人の寝ていた長屋との通路を、赤穂藩士が封鎖した。従って、母屋にいた人達だけで防戦、一学らは、敢え無い最期を遂げた。

 吉良上野介は、忠臣蔵で悪役扱いになっている。しかし、領地のあった三河の吉良(現愛知県吉良町)では、善政を敷き、堤防を造る等の治水工事を行い、豊作をもたらした。今でも地元では、吉良さまと慕われている。

 

豊作や吉良の殿様あがめられ  弘道

 

 様々な見方は有るものの、四十七士を纏め、主君のために仇を討った、大内内臓助という人物の人柄が、より人々を引き付けるのだろうか。

 鉄道唱歌の2番に「右は高輪泉岳寺  四十七士の墓どころ 雪は消えても消え残る 名は千歳の後までも」とある。

(月刊『コア』掲載文を加筆修正)

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