東京そぞろ歩き(8)
日本橋七福神
坂本弘道
大都会の七福神とは
都心のど真ん中にある、日本橋七福神を巡ることにした。七福神は、都内に幾つもある。都心の七福神とは、どんなものか。
水天宮(弁財天)からスタート
日本橋七福神の神社は、いくつかの地下鉄の駅から、どの神社からも、スタートすることができる。先ずは、地下鉄半蔵門線の、水天宮に降り立つことにした。水天宮は、安産祈願の神社として有名である。
我が家でも、孫ができるという度に、ここにお参りに行った。
大通りの角に、真新しい石の階段の上に、鉄筋の社務所と共に、新たな本殿が、ピカピカの銅板を、ふんだんに使って出来上がっていた。耐震もしっかりしている。
次は、弁財天のお参りだ。その裏側には、犬の親子の銅像があり、こちらをなでると、子供を授かるという、言い伝えがあるという。若いカップルが、盛んになでている。
水天宮破魔矢を持ちて並びおり 弘道
松島神社(大国神)
水天宮の階段を下り、新橋通りを隅田川の方向に歩く。松島神社方向の、七福神の昇り旗に沿ってゆく。神社は、ビルの一階の空間を占めている。土地の有効利用も、ここまで来ている。確かに寺院もビルの中に、あることも珍しくない東京のことだ。
入り口の鳥居をくぐり、大黒様にお参りだ。
末廣神社(毘沙門天)
松島神社を出て、ほどなく末廣神社に到着した。大通りから少し入った通路に面している。末廣神社は、江戸の初期に遊郭街吉原(当初は葦原)が、この土地に在ったとき、地元の守護神として祀られた。
ところが、1657年(明暦3)の明暦の大火によって焼失し、吉原は移転した。神社はそのまま残り、地元の神社として祀られてきた。
江戸城もこの時被災、天守閣も焼失し、以来再建されていない。
この神社も御多分に漏れず、ビルの間に、窮屈そうに鎮座している。明治時代の写真を見ると、もう少し広々しているが、次第に狭くなったということだ。
末廣神社の名前の由来は、社殿修繕時に、古い扇が出てきたことにより、氏子たちが末廣と付けた。現在の氏子は、425戸である。本殿は、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲で焼失、戦後の復興である。
笠間稲荷神社(寿老人)
末廣神社のすぐ近くが、笠間稲荷神社だ。元々は、笠間藩牧野氏の広大な邸内築山に、稲荷、山王、八幡を祀っていたこともあって、このような名前になっている。
今は邸宅もなく、町の角にちんまりと祀られている。稲荷神社なので、狐の像が置かれていた。寿老人は、長寿の神、お導きの神、幸運の神として、運命をよい方向に導いてくださるという。
椙の森神社(恵比寿神)
椙の森(すぎのもり)神社は、今までの神社と少し離れていて、地下鉄人形町の駅から少し歩く。
椙の森神社は、難しい名前だ。恵比寿神は、商売、福徳の神である。ここは、平安時代、平の将門の乱を鎮定するため、藤原秀郷が、先勝祈願したといわれる。江戸時代には、椙森稲荷として信仰を集めた。
小網神社(福禄寿)
神社に至る道筋には、100m以上の列ができていて、狭い本殿を拝むには、1時間以上かかりそうだ。列から離れて、拝殿の脇から丁寧に拝んだ。手抜きの分、ご利益が薄いかもしれないなどと考えながら。でもお賽銭は少し多めに。
この神社は、強運厄除の総本社で、550年の歴史がある。本殿は、戦災をまぬかれ、日本橋地区に残されている、唯一の木造檜造りだ。太平洋戦争では、出征兵士が祈願に訪れ、その多くが帰還したという。
茶ノ木神社(布袋尊)
茶ノ木神社は、スタートした水天宮に近い。ぐるりと一回りしてきたことになる。神社は、柵もなく少し高いところに鎮座している。参拝客もまばらだ。
元々、下総佐倉の城主大老の中屋敷にあり、神社の周りにお茶の木が植えられ、その景色が見事であったことからこの名がついている。そういえば 今も神社の脇に、茶ノ木がこじんまりと植えられている。
七福神詣で茶店で一休み 弘道
七福神を巡って
日本橋の七福神を回って、思いをめぐらしたのは、江戸時代七福神巡りが、庶民の娯楽の一つだったことだ。江戸時代と言っても、150年足らず前のことだ。
どのように都市の開発が進んでも、神社は庶民の中に生き残っている。神社の敷地は狭くなっても、たとえビルの一角になろうとも、ちゃんと鳥居を携えて、その奥に鎮座している。
科学の世界がいかに発達しても、理屈では解決されない何者かが、世の中には潜んでいる。祈りを頼りに、人々は訪ねてゆく。私もその一人なのだ。(月刊『コア』掲載文を加筆修正)