*東京そぞろ歩き(16)新橋

新橋

坂本弘道

高架の新橋駅

 JR新橋駅は、山手線で東京駅から二つ目だ。京浜東北線、東海道線、横須賀線、東海道新幹線等が並行して走っている。

 今の新橋駅は、1909年(明治42)に開業した烏森停車場が始まりで、その後、1914年(大正3)に東京駅開業に伴って、新橋駅と改称され、現在に至っている。

 ちなみに、新橋の名は、江戸時代にこの近辺の外堀にかけられた、橋の名前の新橋に由来している。

機関車の煙と共に花吹雪            弘道

新橋芸者は、幕末の1857年(安政5)に、三味線の師匠が開業した料理茶屋が始まりだ。明治になって、新橋の料亭を新政府の高官達が、ひいきにした。伊藤博文や板垣退助らも集まった。

名物の機関車

 西口広場の名物は、蒸気機関車だ。1972年(昭和47)にSL機関車が設置された。SL広場といっている。機関車は、待合せ場所のシンボルだ。

 置いてあるのは、C11型の292機関車だ。C11型は1932年(昭和7)から1947年(昭和22)にかけて、381両造られたタンク式の蒸気機関車だ。

鉄道の建設

 日本の鉄道建設は、1872年(明治5)に開業した新橋と横浜(現在の桜木町)間の29kmから始まった。その時、建設された始発駅が、新橋停車場だ。

 線路の建設は、土地が得られず、品川のあたりは、東京湾の浅瀬に堤防を造った。列車は海の中を進んだ。

 29kmの間を、53分で走った。現在でも、新橋と桜木町間は、横浜乗り換えで、30分余りかかる。当時の乗り物としては、画期的なスピードだ。

 開業時の5台の蒸気機関車は、イギリスから輸入された。蒸気機関車は、1800年代の前半に開発され、欧米では、すでに実用化されていた。

 日本人では、幕末に長州藩の井上勝がイギリスに留学、鉄道工学を学んだ。帰国後、日本の鉄道建設を進める上で、重要な役割を果たした。

再建された旧新橋停車場

 旧新橋停車場は、関東大震災等で崩壊し、その後、貨物の停車場になった。貨物輸送も、列車からトラックになり、その役目を終えた。

 現在の旧新橋停車場は、汐留地区の再開発の一環として、当時と同じ場所に、原型を忠実に守って、2003年(平成15)に再建された。

 この建物の地下には、旧駅舎の基礎の石積みがある。停車場のある広場は、高層のビル群が取り巻いている。

 正面玄関の入り口の、階段の脇に設けられた見学窓から、昔の停車場の石積みを見ることが出来る。建物の二階が鉄道歴史展示室になっている。

 建物の正面玄関の反対側には、25mのプラットホームがある。プラットホームは、当時乗降場といっており、151,5mの長さだった当時と同じ線路も再現された。

 その起点には、「0哩(ゼロマイル)標識」がある。わが国の鉄道建設時の測量起点(第一杭)として打ち込まれた距離標だ。

 

 創業時の線路の設置状況も再現されている。創業当時は、枕木やレールの台座は、小石や砂の交じった土をかぶせられ、レールの頭だけが地表に出ていた。

 レールの断面は、上下対象のI型になっており、枕木の上で。線路の両側を留め金で固定した構造だ。

すき焼きの店「今朝」

 旧新橋停車場の近くにあるのが、すき焼きの店「今朝(いまあさ)」だ。すき焼きを食べることは、明治天皇が推奨され、人気となった。

 1880年(明治13)に、初代店主の藤森今朝次郎が、この地にすき焼きの店を開店した。店舗の広さは40坪だった。永井荷風も通った店だ。

 今は、同じ場所に地下一階、地上9階の「今朝ビル」となっている。ビルの入り口に、「今朝の昼食」と書かれていて、とまどう。すき焼きの店舗は2階にあり、132坪だ。すき焼きの歴史と、一緒に歩んできた老舗の店だ。

烏森神社

 烏森神社は、新橋駅日比谷口のSL広場の近くにある。飲み屋の集まった中の、小さな神社だ。940年(天慶3)の建立だというから、随分と古い。

 創設当時は、この辺りは、まだ海岸の砂浜で、一帯は松林だった。こんなことから、空州の森といわれていた。この松林には、鳥が集まって巣を作ったため、烏の森といわれるようになった。烏森は、JRの新橋烏森口として、名を留めている。

烏森飲み屋横切り初詣            弘道

 

 新橋駅が出来て、駅前がにぎやかになり、挙句の果てに、今日のように、飲み屋の中に飲み込まれるようなことになった。

 1971年(昭和46)に、モダンなコンクリート作りに建て替えられ、階段の上に本殿がある。

 

 高層ビルを屏風のように建てると、東京湾の浜風が、内陸部に通りにくくなる。ビルの合間に所々隙間を設けたということだが、効果の方はどうだろうか。

(月刊『コア』連載一部修正)

 

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