四谷
坂本弘道
甲州街道の防衛の要
江戸時代、江戸城防衛のため、四谷に門と大木戸を築き、甲州街道の往来の取り締まりを行った。
JR四谷駅は、中央線で、東京と新宿の間にある。東京駅から9分だ・駅を出たところに石垣が見える。石垣は、外堀の堤の名残だ。
堤には、染井吉野が植えられており、毎春、花見の宴が開かれる。今年は、コロナも収まり、久方振りに復活しそうだ。
四谷の地名の由来は、原野に4軒の百姓家があったからだとか、茗荷谷、千駄ヶ谷、千日谷、大上谷の4つの谷からだともいわれている。
満開の桜並木で酒を酌む 弘道
上智大学
四谷の交差点の傍に、上智大学の建物が見える。湾曲した外堀の堤に沿って、キャンパスが広がっている。構内には、自由に入ることが出来る。
上智大学は、カトリック系の大学で、1913年に創設された。
この大学は、外国との交流も盛んで、2019年には、1006人が海外に留学している。
双葉学園
交差点を隔てて、上智大学の向かい側は、双葉学園の中学校、高等学校だ。丸い煉瓦造りの建物が見える。双葉学園も、カトリック系だ。
都内屈指の女子の進学校で、桜蔭、女子学院と共に、女子御三家と言われている。
服部半蔵の墓
四ツ谷駅から近い若葉地区の西念寺には、服部半蔵の墓がある。服部半蔵は、江戸時代を通じて名乗られ、この墓は、二代目半蔵だ。
服部半蔵は、三重県伊賀の出身で、出が忍者だ。服部半蔵は、徳川家康の家来として名が知られている。皇居の半蔵門は、服部半蔵に由来している。この近くに屋敷があった。
徳川家康の長男信康は、信長の娘をめとり、岡崎城主となったが、武田勝頼と内通したと嫌疑をかけられ、信長の意を受けて、父家康に切腹をさせられた。この時、二代目服部半蔵は、介錯を命じられたが、涙が出て果たせず、後年、仏門に入り「西念」と称し、信康を弔った。
そのため二代目半蔵は、麹町に安養院を立てた。この寺は、江戸城のお堀の拡張のため、四谷に移され、西念寺として服部半蔵の菩提寺となり、現在に至っている。
墓地には徳川信康の供養塔もある。丸い石の上に灯籠型の石が積まれている。二代目服部半蔵が、設けたものだ。
ちなみに、忍者ハットリくんも、服部半蔵の子孫という想定だという。
お岩さんの陽運寺と田宮稲荷神社
西念寺の近くに、陽運寺がある。陽運寺は、「東海道四谷怪談」のお岩さんを祀っていることから、「お岩稲荷」とも言われる。
四谷怪談は、江戸時代の歌舞伎作者、四世鶴屋南北の作だ。
物語では、お岩さんは、子供の時疱瘡にかかり、あばたのあるひどい顔になり、それを隠して田村家は伊右衛門を養子に迎えた。夫伊右衛門に殺されたお岩さんが、幽霊となって,復讐を果たすという、おどろおどろしい物語だ。
境内には、お岩さんの立像が奉納われていて、厄除け、ご縁事、芸能などに霊験があるとされている。お岩さんゆかりの井戸もある。
地元復興のため、歌舞伎のお岩さんを持ってきたというわけだ。
貧民街 鮫ヶ橋
西念寺や陽運寺の近くには、摺鉢状のくぼ地があり、江戸から明治時代にかけては、貧民街だった。東京の三つの貧民街の内、一番大きかった。
江戸城の外堀を作った時、この近くに、多くの寺院を移転させた。従って今も多くの寺院が見られる。寺院の付近には、人が住みだし、それが契機となって貧民街を形成していった。この地域は、関東大震災、東京大空襲などで、壊滅した。路地の隅に古い祠がある。
路地裏の朽ちた祠に菊の花 弘道
貧民街の在ったくぼ地に下りるには、観音坂や暗闇坂を下る。結構急な坂道だ。昔の貧民街の面影はない。鮫ケ橋の地名も残っていない。
迎賓館や、学習院の初等科とさほど離れていないところだ。
荒木町
四谷三丁目近辺の新宿通りの北側のあたりが、荒木町だ。江戸時代には、美濃国高須藩藩主、松平義行の屋敷があった。
明治時代には、景勝地となり、料理屋が立ち並んだ。今も車力門通り、杉大門通りなどという通りがあり、路地裏に飲食店がある。
消防博物館
新宿通りの四谷三丁目の角にあるのが、東京都消防博物館だ。一階のフロアには、消防ヘリコプターが展示されている。
5階から下のフロアーが、展示室だ。5階には、江戸時代の街並みの模型が置かれている。4階は消防の変遷ということで、明治から昭和にかけての消防服がある。2階は、現在の消防の状況だ。
ここに来れば、東京の消防の歴史をくまなく見ることが出来る。
(月刊『コア』連載一部修正)