東京そぞろ歩き(21)上野の旧岩崎邸庭園

上野の旧岩崎邸庭園

坂本弘道

不忍の池の近くに

 JR上野駅を出て坂を下ると、不忍の池だ。

 池に沿った道から、池とは反対側に広がる高台の方に登ると、旧岩崎邸庭園の入り口だ。

 二本の石柱の門の中は、なだらかな坂道が続いている

 坂を登りきると、大きな公孫樹が青い空に向かって、枝を伸ばしている。小ぶりの黄色い葉っぱが、一面に広がり、秋空に映えている。樹齢400年は超えていると推定されている。

岩崎邸空一杯に銀杏の樹              弘道

 広場の向こうには、しゃれた洋館が待ち受けている。館の前の広場には背の高い数本の棕櫚が植わっている。

 

岩崎弥太郎

 岩崎邸を建てたのは岩崎弥太郎だ。

 岩崎弥太郎は、1835年に土佐の国(現在の高知県安芸市)で生まれた。

 幼少のころから学問を学び、幕末に江戸に来て、その後、明治政府の要人となる人達と交流することになった。

 維新政府が樹立されて、紙幣貨幣の全国統一化がなされた時、各藩が発行していた藩札を大量に買い占めた。これを新政府に買い取らせて、莫大な利益を得た。

 このようなことから、海運業を始め、台湾出兵や西南戦争で兵士や物資の運搬を政府から引き受け、これでも多くの利益を得た。

 得られた資金で、明治11年には、高田藩榊原家江戸屋敷(旧岩崎邸庭園)、駒込の庭園(六義園)、深川清澄の屋敷、(清澄庭園)等を買収した。

 現在の丸の内に当たる場所も、岩崎弥太郎が買収した。ここに、次々と洋館を建てて、近代的な街造りの先駆けとなった。

 岩崎弥太郎は、三菱商会を立ち上げ、様々な企業の設立、発展に関わった。いわゆる三菱財閥を作り上げた。

 岩崎弥太郎が立ち上げた三菱商会は、現在は三菱商事、三菱マテリアル、三菱UFJ銀行等となり、我が国の経済を牽引している。

旧岩崎邸の経緯

 旧岩崎邸庭園は、江戸時代には大名庭園であったが、明治時代初期には旧舞鶴藩主の牧野邸となった。

 次は西郷隆盛の部下、桐野利秋の邸宅となり、明治11年(1878)、岩崎弥太郎が屋敷を構えた。その後、岩崎家の邸宅として長く使われてきた。
 昭和20年(1945)、終戦により、GHQ占領下の日本に置かれた。

 昭和23年には、米軍に接収された旧岩崎邸を立教大学系の聖公会神学院が買い取り、和館は教室と説教場に、洋館は米軍が使用した。

洋館とビリヤ―ド室

 靴を脱いで上がったのが、この洋館だ。明治29年の竣工で、岩崎家の迎賓館として用いられた。木造2二階建てだ。外人のジョサイヤ、コンドルの設計だ。

 コンドルは、上野博物館、鹿鳴館、ニコライ堂、古河庭園と洋館等を設計した。また、三菱、岩崎家の建物の設計を数多く手がけた。

 洋館の各室には、暖炉が設けられてあり、天井には絹のペルシャ刺繍が張り付けられている。部屋の柱やドアーは重厚な造りで、立派な部屋が続いている。

 一階には、書斎や客室、大食堂などが配置されている。二階には、客室や集会室がある。建設当時は、部屋や廊下の壁には、金唐革紙が貼られていたが、現在は、二階の2部屋のみ、金唐革紙が復元されている。

 二階には、洋風の柱によって支えられているバルコニーがあり、バルコニーから広々と開けた庭を見下ろすことが出来る。遠い所に、巨大な灯籠が見える。武家庭園の頃の名残らしい。

 一階には、地下に下りる通路があり、洋館から少し離れたところにあるビリヤード室に通じている。雨の日でも通路を渡って濡れずにミリヤード室に行くことが出来た。ビリヤード室は、同じくコンドルの設計で、スイスの山小屋風だ。

和館

 洋館と地続きに和館がある。畳式の大広間がある。正面には富士山の絵が描かれているが、月日を経てすっかり色あせている。この大広間で、岩崎家の新年のお祝いが催されたという。

 長い太い柱がふんだんに使われ、釘隠しには、岩崎家の家紋が入っている。

 和館は、当初は550坪に達する大邸宅だったが、取り壊されて、わずかに今日の姿を留めている。現存するのは、大広間と次の間、3の間、茶室、渡り廊下、便所のみとなった。

庭園

 庭園は、池を埋め立てて造られ、広大な芝生の風乾が広がっている。

 周りには、灯籠や大きな庭石が配置されている。大名庭園の名残だ。敷石も大きくて、大胆な配置だ。

 大きな木斛(もっこく)が秋の日差しを受けて揺らいでいる。木斛はゆっくり成長する。木の太さから、年月の経過を思わせる。

 

(月刊『コア』連載一部修正)

 

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